卒業生の声

人生を変えてくれた恩師に出会えた――。私が日本から遠く離れたアフリカの貧困問題について研究する理由

世界銀行は「一日に2.15ドル未満の生活」(国際貧困ライン)を送る人およそ7億人を極度の貧困状態にあると定義していますが、その半数以上がサブサハラ・アフリカ(サハラ砂漠以南のアフリカ)にいます。この地域最大の都市であるケニア共和国の首都ナイロビで、教育と貧困問題について研究を行っている松本愛果さん。学習院大学国際社会科学部在学中にアフリカ研究を始め、その研究を深めるために京都大学大学院の博士課程に進んだ松本さんに、オンラインで話を聞きました。

人生を変えてくれた恩師に出会えた――。私が日本から遠く離れたアフリカの貧困問題について研究する理由
松本 愛果

2016年に国際社会科学部入学。
2020年に国際社会科学部国際社会科学科卒業、
同年に京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科へ進学。

高校時代は吹奏楽部でチューバ、トロンボーンを担当。2016年に国際社会科学部入学。山
﨑泉准教授ゼミ(アフリカ経済論)で卒業論文執筆。2020年京都大学大学院に進学、アフリカ地域研究を専攻。

人生を変えてくれた恩師に出会えた――。私が日本から遠く離れたアフリカの貧困問題について研究する理由

世界で1、2を争う治安の悪い国の話を聞いた

初めて外国に興味を持ったのは小学生の頃。時々家に遊びにきていた父の友人の奥さんがコロンビア人で、彼女が子供の頃を過ごしたコロンビアがどんな国だったのかを話してくれたんです。昔も今も世界最大のコカイン生産国であるコロンビアは、当時麻薬カルテルの抗争や、誘拐、殺人、強盗などの凶悪犯罪が多発し、麻薬も銃も蔓延していて世界でも1、2を争うほど治安が悪かったそうです。そんな中で彼女の身の回りに起こった色々な話は、埼玉ののんびりした田舎に生まれ育ち、犯罪とは全く縁のない生活を送ってきた私には衝撃的でした。

もともと文を読むことが好きでした。父は国語教師で、家に小さな図書室ほどの本の部屋があり、自分の部屋にも本棚があって読み放題でした。ミステリーが好きでシャーロック・ホームズや江戸川乱歩、アガサ・クリスティの小説を何度も読み返していましたし、ハリー・ポッターや指輪物語、ナルニア国物語などのファンタジーにもハマりました。それから文学を読むようになって。今、研究で文献を大量に読まないといけないのですが、その耐性が幼少期の我が家でついたと思います。

学習院大学の国際社会科学部を志望したのは、父の勧めでした。私は地元の公立の女子高に通っていたのですが、吹奏楽部の練習や学園祭の実行委員やら何やら忙しくて受験に間に合わず、浪人してしまったんです。そうしたらちょうど学習院に新設の国際系の学部ができるというパンフレットを父が持ってきました。高校の同級生が先輩になることもないので、これはいいと思って受験しました。

4つ星ホテルのインターンで感じた"貧富の差"

大学1年生の夏、ベトナムでの5週間の留学プログラムに参加しました。1週間語学学校に通い、4週間インターンシップで働くというプログラムです。インターンシップでは有名なビーチリゾートにある外国人向けの4つ星ホテルでウェイトレスとして働きましたが、そこで私は、発展途上国にある貧富の差を目の当たりにしました。豪華絢爛なホテルで働く従業員の給料は月に2万円ほどしかなく、とても貧しい暮らしをしている。従業員は何か食べるとしても、ホテルから離れた屋台でしか食べられないんです。

「日本羨ましいな。日本って安全なんだよね」と多くのベトナム人に聞かれたことも気になりました。お金がない人が持っている人からお金を奪うために犯罪が起こるわけで、日本が治安が良いのは日本がまだ豊かだからなんだと。そんな体験があって、私の興味は世界の貧困問題に向いたんです。発展途上国が経済発展して貧困問題が減っていけば、心に余裕ができ、全体的に犯罪は少なくなり安定した暮らしができるようになるだろう。そのために自分は何かできないだろうかと、漠然と思ったのです。それから休みのたびに海外に行くようになり、東南アジアや中南米、ヨーロッパなどさまざまな場所を巡りました。


そんな思いを抱えた大学2年生の時、山﨑泉先生のアフリカ経済論の授業を受けました。それは歴史、文化、戦争、学校制度も含めて、アフリカの現代社会がなぜこうなったかという原因を探っていく授業でした。教育が専門で世界銀行、ユニセフ、JICA研究所などに勤務し、アフリカのタンザニアに駐在して教育プログラムの実施に携わった経験もある山﨑先生の授業は私の心を揺さぶりました。アフリカ、特にサブサハラ・アフリカ(アフリカ大陸のうち、サハラ砂漠以南のこと。エジプトなどの北アフリカ地域を除く)の経済状況や歴史、文化、教育と様々なトピックを取り上げていただいたおかげで、自分は途上国の教育に興味があると気づきました。


そして山﨑先生のゼミに入りました。最初はサブサハラ・アフリカ地域の子どもが学校に通うようになる要因は何かという点から研究を行い、成績の向上に影響を与える要因は何か、成績の向上には物資を与えるのがいいのか、教員養成が必要なのか、学校自体のマネジメントが重要なのか、といったように少しずつ視点を変えながら研究を重ねていきました。そのうち学校に通っても、学校での成績が良くても、学歴が高くても、仕事がなくて給料が得られなければまともに生きてはいけない。学校を卒業した後の生活を重視しなければいけないという考えに至り、葛藤しました。結局は、安定した生活を送れる人が増えていくことが国の発展に非常に大切なのです。

アフリカ研究を続ける選択をした理由

就職活動を始める時期には、アフリカに貢献したいという気持ちが大きくなっていました。そのためには、民間企業に入ってアフリカの開発などに携わる、国際機関に勤めるなどいくつかの選択肢があると思いましたが、私が出した結論は研究を続けることでした。企業の場合は支援を事業としてきちんと収益化をしなければならない。それは私の考えにはあまり合わないと感じました。一方で国際機関では、少なくとも修士、できれば博士号を持っていないと自分の思う通りの仕事ができないだろうと思いました。加えて、アフリカが抱える数々の問題を本当に解決するには、もっと深いところまで研究したいと思ったのです。将来大学で研究職に就くか、国際機関に勤めるかのいずれを選ぶにせよ、大学院に行って博士になるのが私の進むべき道だと思いました。そうしてアフリカの研究をするには京都大学大学院のアジア・アフリカ地域研究研究科が最も望ましい環境だと知り、5年一貫制(修士過程2年間+博士課程3年間)の課程に進みました。現在は4年生(博士課程の2年目)です。

コロナの流行が始まった2020年に入学した私は、かなりイレギュラーな研究生活を送りました。修士の2年間は渡航の許可が下りなかったのですが、運よく知り合いのJICA職員の方からいただいたケニアの首都ナイロビにおける調査のデータを用いて、統計分析を使用して修士論文を書きました。


3年次からは渡航の許可が下りたので、2022年の9月頭から23年の3月末まで約7か月間、ナイロビでの調査を行いました。平日はほぼ毎日、現地の大学や職業訓練学校に足を運び学生へのインタビューを行ったり、授業への参加をしたりと、ケニアの高等教育における授業風景や環境、内容を明らかにしました。4年次になった現在は2023年の7月後半から24年の3月後半までの約8か月間の渡航の最中で、主に現地の企業へのインタビューを行っています。

超富裕層と超貧困層の二極化問題をどう解決するか

私の体感では、アフリカの抱えている問題が100あるとするなら、わかっていることは10ぐらいしかありません。アフリカ諸国は植民地時代と独立、数十年に及ぶ内戦やクーデターを経てようやく平和に近づいて開発が始まったり、いまだ不安定な情勢だったりと、状況もまちまちでさまざまな問題が新しいんです。アフリカの問題は現地でもっともっと研究しないと解決できない。アフリカはもう日本とも、東南アジア諸国とも比較にならないくらい貧富の差が激しいです。豪邸をいくつも持ってフェラーリやランボルギーニを何十台も所有しているような大金持ちがたくさんいる一方で、スラムのワンルームに5人で住んで今日食べるものがない人たちもたくさんいます。文字が書けない、計算ができないのはもちろんのこと、その国の標準語が話せないという人が多く存在します。ただ支援してもこの格差は埋まらないんです。本当に貧しい人には住所もないので直接支援することが難しい。政府にお金だけ渡しても貧しい人には届かない現実があります。この現実を変えるには、何がどうなってこのような問題が起きているのかをまず調べなければできない。一人では到底研究できないぐらいの問題が山のようにあるのがアフリカなんです。

私が研究対象としているケニアは、サブサハラ・アフリカの中でもトップクラスに開発が進んでいる国であり、「学歴社会化」が進んでいます。小学校卒業時から全国共通テストを行っており、その結果によってどのような学校に進学するかが決まります。しかし、そのケニアでさえ大学を卒業したとしても、正規の職を得ている人は非常に少なく、若者の多くは短期のアルバイトで食いつないでいるのが一般的です。大学の入学資格が得られなかった場合、職業訓練学校(日本でいう専門学校に近い)に進学することはできますが、人々からの評価は低い水準にとどまっているのが現状です。例えば私が取材に行った自動車整備の職業訓練学校では、10数人の生徒に対して学習用の車と機械が1台ずつしか割り当てられていません。そしてその学校を卒業した生徒は、インフォーマルセクター(法人不登記)の工具すらまともにないガレージのような整備工場にしか勤務できず、1日に200円から、良くて500円程度の給料しか貰えません。ケニアの労働者の85%はインフォーマルセクターで働いています。このようなケニアの労働市場の実態を知ったことで、人々が本当に身につけるべき知識や技能は何なのだろうか、学歴の差で所得や仕事の得やすさ、仕事内容はどのように変わるのか、といった焦点を当てて調査を進めている最中です。

来年帰国した後は博士論文を書き、博士号を取得した後は研究者として自分の研究をさらに突き詰めていきたいと考えています。また、大学で授業を持ちたいとも考えています。山﨑先生に人生を変えられたといっても過言ではありません。山﨑先生はいつもご自身の知識や経験を惜しげもなく私たちに共有してくれて、そのような先生の姿を見て私もいつかアフリカを学ぶ楽しさ、研究の楽しさを伝えられるような人になりたいと思いました。山﨑先生とは今でも研究助手として先生の研究に参加させていただいたり、TAとして授業に参加させていただいており、卒業後もよい関係を続けられていると思っています。そのような先生に学部時代に会えたことは私の人生において大切な宝物だと思います。

※所属・仕事内容など掲載内容は取材当時のものです。

4年間の流れ

1年次

自分の興味関心を知るために様々な社会科学の授業を履修。英語力を鍛えるため夏季休暇中ベトナムへ留学。

2年次

アフリカ研究に出会う。図書館に通い始め、興味関心のための勉強時間が増えた。研究者に興味を持つ。

3年次

院進学の準備を始める。ゼミでは前期にモザンビーク、後期からケニアの研究を始める。

4年次

院試に向けての試験勉強と並行して、教員が生徒の成績に与える影響をテーマに卒論を作成。京都大学に合格。